同じ状況や環境であっても自分とは全く違う反応や考え方をする人がいます。
その反応や考え方は「極楽」と「地獄」の分かれ道かもしれません。
今回紹介する寓話を読み、長い箸の使い方によって、自分が極楽の住人か地獄の住人か考えてみてください。
目次
極楽と地獄の長い箸
この話は「極楽」と「地獄」をとてもわかりやすく描いている話です。
そして現代社会でも共通する部分があり、大事なことを気付かせてくれます。
それでは、あらすじへ。
あらすじ
ある男が極楽と地獄はどんな違いがあるか知るため、閻魔大王を訪ねました。
閻魔大王は、
「今は丁度食事時だから見てみると良い」
と承諾してくれました。
最初に連れて行ってくれたのは地獄です。
長いテーブルの両側に罪人たちがずらりと並んでおり、テーブルの上には想像に反してとても豪華な食事が並んでいました。
しかし、罪人たちはガリガリに痩せこけています。
男は、
「これはおかしい」
と罪人たちをよく見てみると、皆1メートルはあるであろう長い箸を使い食事をしていました。
食事が始まり、ある者は長い箸で一生懸命自分の口へ食べ物を運ぼうとしますが届きません。
またある者は、他の者の食事を横取りしようとして喧嘩をしています。
そこら中で怒号や暴力が飛び交い、地獄は大騒ぎになってしまいました。
次に閻魔大王は極楽へ連れて行ってくれました。
極楽も地獄と同じように長いテーブルがあり、豪華な食事が並んでいました。
そしてこちらも長い箸を使い食事をしています。
しかし地獄とは違うのが、笑顔があふれて皆楽しそうに食事をしているというところです。
男は食事風景をよく見てみると、
「どうぞ。」
と対面の住人に食事を食べさせてあげ、
「ありがとうございます。これはお好きですか?どうぞ。」
と食べさせてもらっていました。
男は、
「なるほど、極楽と地獄の違いは住人の考え方や心がけだな」
と感心したとのことです。
極楽と地獄の違い
この寓話の教訓は「純粋な相手を思いやる心や助け合う気持ちは自分を助ける」ということです。
極楽と地獄は同じテーブルに同じ食事、同じ箸を使っていたにもかかわらず状況と環境は天地の差があります。
その差こそが「純粋な相手を思いやる心」と「助け合う気持ち」を持ち合わせているかどうかなのです。まあ持ち合わせていないが故に地獄へ行ったとも言えますが、、、
人生において
この話を人生に置き換えて考えてみましょう。
世の中には地獄の罪人のように、
「自分さえよければ他はどうでもよい」
という考え方をする人がたくさんいます。
たしかに、ものの考え方や捉え方は人それぞれ無意識に選択しているので、故意的に考え方や捉え方を変えるのは困難です。
しかし逆に言えば、極楽の住人思考か地獄の罪人思考かを選択するのは自由ということです。
人は自分一人のみでは幸福にはなれません。
極楽の住人思考を手に入れたいと思うなら、まずは、「Give and Give」を念頭に行動しましょう。
長い箸とは
私がこの話を読んで、学んだもう一つの教訓は「愛情の使い方で世界は変わる」ということです。
全ての人が生きているうちから長い箸を持っています。
これは、自分のために使えば満たされないが、相手のために使えば相手を幸せにできるもの。
すなわち、私は長い箸は愛情ではないかと考えました。
たしかに自分のために愛情を使うことは大切なことです。
しかし、自分へ注いだ愛情は愛情として蓄積されずに自信へ変換され蓄積されます。
これでは幸福の胃袋は満たされません。
なぜなら幸福の胃袋は『相手からの愛情』でのみ満たされるからです。
人は、相手から愛されていると感じることで幸福感を得ます。
そして、幸福感を得ると相手へ分けようとする生き物です。
このことを知っている人が極楽へ、知らない人は地獄へと分けられるのでしょう。
まとめ
純粋な相手を思いやる心や助け合う気持ちは最終的に、与えたよりも大きくなって自分に返ってきます。
しかし、返ってくることを期待して与えるのは違います。
【必見!対人関係の怒りをなくす方法】で説明した通り、勝手に期待すると怒りを生みます。
この極楽と地獄の長い箸は様々な考察ができ、面白い話です。
私は長い箸は愛情だと考察しましたが、「長い箸は優しさではないか?」や「長い箸は言葉なのではないか?」など様々な考察ができます。
あなたはこの長い箸はなんだと思いますか?